91年6月3日の雲仙・普賢岳の大火砕流は43人の犠牲者を出した.臨時の前線本部を設置してい
た毎日新聞社からも,取材中の3人が犠牲になった.新人として応援に駆り出されていた著者は,その
後、局長1人,支局員1人となった島原前線本部に配属される.そこから著者は島原市民として,町の人々
や山とついあっていった.
火山活動が落ち着いたとみられ,防災工事の計画も発表されていた93年には,大土石流と大火砕流が
発生.1人の犠牲者を出し,いくつもの集落がなくなった.やる気を失う著者だったが,この災害と共
に生きていく決意をしていく.
その後も,市民,火山研究者たち,雲仙を取材するジャーナリストとの交流や,謎のボランティア騒動,
警察官の「逸脱行為」をめぐる報道合戦など,取材を通して様々な事件に遭遇.また,「復興ネット
ワーク」などの市民ネットワークも自分たちで作っていく.
95年の阪神大震災へも応援取材.日本の災害対策の問題点を改めて実感する.
この雲仙・普賢岳災害では,大きな特徴がいくつかある.まず火山と町とが非常に近くにあること.
このことによってこの災害は,復興と災害が繰り返される「共生型」ともいえるものになった.
また,火山の研究において
も新しい発見が次々となされた.
住宅密集地域に日本で初めて,警戒区域を設定した災害であることも特記すべき出来事である.これに
よって,市民は自分の家に戻ることを法律で禁止され,何万頭もの家畜を死なせたり,作物を枯れさせ
たりという,「法災」を受けることになった.
火砕流,土石流から無事であっても,火山対策のために家を追われる人々,また,復興のために借りた
金を返せず,家を差し押さえられる人など,市民の生活は落ち着かない.彼らの援助についても日本
の災害法制度は整備されているとはいえない.
本書に述べられた雲仙の記録は、日本の災害対策にとっても貴重なものになるはずである.