1990-1995年 雲仙・普賢岳噴火の概要


 1990年11月17日,当観測所開設以来はじめて,雲仙・普賢岳の噴火活動が始まった.この前兆となる地震活動は,噴火1年前の1989年11月に発生した橘湾の群発地震までさかのぼるが,さらに決定的な前兆現象は,噴火4カ月前の1990年7月より観測され始めた.
 同月4日,雲仙岳測候所1924年開設以来初めてとなる,火山性微動が火口北北東約3kmに設置されていた,当観測所礫石原地震観測点で検出された.さらにその3日後,火口直下でのマグマ圧力の増大が原因と見られる地震が火口周辺で多発,これらの観測データは,火山噴火の前兆を捉えた貴重な資料となった.
 この一連の異常現象は地下の火山活動の活発化に伴うものと判断,火山噴火予知連絡会,および軽井沢で開かれた秋の日本火山学会にも報告した.これを受けて,文部省科学研究費の交付が緊急に認められ,火山性微動の精密な震源決定を行うため,全国国立大学火山観測機関による総合観測が,1991年初めにも実施される運びとなった.
 この間も普賢岳では,消長を繰り返しながらも地震活動,微動活動とも次第次第に活発さの度合いを深め,ついに,11月17日未明,実に198年ぶりの噴火活動を開始した.噴火地点は,有史時代の旧火口,地獄跡火口と九十九島火口である.噴火後急遽,全国国立大学火山観測機関からなる合同観測の準備がなされ,20日には,普賢岳火口近傍を含む周辺約20の地震観測点のデータが,当観測所にリアルタイムで集中モニターできる態勢となった.このほか,地殻変動,重力,電磁気,火山ガス,温泉等の各種観測が他大学観測機関を中心に実施された.
 噴火活動は,この後数日のうちに著しい衰退をみせ,一旦火山性微動も11月下旬から観測されない状態となったが,翌1991年1月下旬,再び火山性微動が発現した.火口近辺においても,地獄跡火口での泥土の噴出,同火口西縁での新たな噴気の発生など,再噴火の兆候が次第に顕在化していたが,新たな噴火活動は,意外にも,それまでの火口ではなく,新火口「屏風岩火口」を形成して,2月12日に始まった.
 屏風岩火口からの噴火は,激しい降灰を伴うもので,その後,数時間から数日の間隔をおいて激しい噴火を繰り返すようになった.さらに,地獄跡火口からの噴火も再開し,3月下旬頃より,マグマ水蒸気爆発の様相を呈した.
 この激しい噴火活動は5月10日過ぎまで続いたが,5月12日頃から今度は,火口直下ごく浅いところを震源とする微小地震が頻発し始めた.さらに,地質調査所による光波測量により山体の膨張が捉えられたため,溶岩流出を含む火山活動の新たな局面が予測された.
 5月20日,報道機関ヘリコプターにより,地獄跡火口に出現した溶岩ドーム(第1溶岩ドーム)が初めてカメラに収められたが,翌日には大きく2つに割れ,その翌日には細かく砕け,次第に火口を埋め尽くすまでに体積を増した.こうして溢れだした溶岩塊は,火口東縁からの落下を始め,5月24日朝,最初の火砕流が,火口東方,水無川源流部を流れ下った.
 溶岩の噴出は,日量30万立方メートルを上回るペースで進み,競りだす溶岩ドームは崩壊を繰り返し,火砕流は段々と規模を増していった.そして,6月3日午後4時8分,それまでで最大規模の火砕流が水無川流域を襲い,地元消防団,報道関係者など死者・行方不明者43人にのぼる大惨事となった.
 溶岩噴出は一向に衰える気配なく,6月8日にはさらに大規模の火砕流を引き起こしたが,幸い自治体による警戒区域の設定が断行されていたため,新たな犠牲者は免れた.しかし6月11日深夜の噴火では,火口北東側を中心に島原市内に軽石を降らせ,屋根瓦,車のフロントガラス等に被害をもたらした.また6月30日の豪雨による土石流は,水無川を外れ流下し,海岸線地域にまで新たな物的被害を生じさせた.
 このころから,溶岩ドームの成長は,東側斜面へ舌状に進みだし,7月下旬には全長約200mの第2溶岩ドームを形成した.火砕流は,主にその先端部からの部分崩落によるものである.8月になると,一旦静穏化していた火口付近の地震活動が一時再発するとともに,中旬には,溶岩ドーム頂部に第3溶岩ドームが出現した.
 第3ドームは,第2ドームに被いかぶさるように次第に北東方向に成長を始めたため,北東おしが谷方向が新たな火砕流の流路となった.9月上旬には火口付近での地震活動が再び活発化していたが,9月15日,第3ドームの大崩壊により,ふたたび規模の大きな火砕流が発生した.この火砕流は,北東おしが谷から流路を地形に沿い右にカーブさせ,水無川へ合流した.火砕流本体は,水無川に沿って進路を左に曲げたが,熱風はそのまま丘をはい上がって直進し,深江町立大野木場小学校などの建物を焼失させた.
 第3ドーム崩壊跡には,新たな溶岩の涌き出しが始まり,第4溶岩ドームとなった.第4ドームは,11月には全長400mにまで成長し,この間,北東おしが谷方向への火砕流を頻発した.
 11月下旬には,ドーム頂部に新たな溶岩の涌き出しが確認され,第5溶岩ドームとなった.それから間もなくの12月初旬,今度はドーム南東側に第6溶岩ドームが成長を開始した.第5ドームはその後,主に,ドーム内部への溶岩供給に伴う「内成的」成長に転じたが,第6ドームは,南東方向へ舌状に成長を続けたため,新たに火口南東,赤松谷方向への火砕流を発生し始めた.第5ドーム出現頃より,火口付近の地震活動は慢性的となり,当観測所では,ドーム近傍に臨時地震観測点を新たに設置,これらの地震が溶岩ドーム内部を震源とすることをはじめて突き止めた.
 1992年3月,8月には,それぞれ,第7溶岩ドーム第8溶岩ドームが,いずれもドーム南東方向に成長を開始したため,引き続き,南東赤松谷方向への火砕流が繰り返された.しかしこの頃には,溶岩噴出率に漸次低下傾向がみられるようになり,12月には,第8ドーム根元に第9溶岩ドームとなる新たな溶岩の涌き出しが見られたものの,全般的な火山活動は衰退気味との見解が趨勢となりつつあった.
 ところが1993年2月始め,溶岩供給量の急激上昇とともに,ドーム頂部に,第10溶岩ドームの成長が始まった.第10ドームは,それまでのドームを土台にして大きく成長したが,3月中旬になると,今度はその東縁付近から,新たな溶岩の涌き出しが確認され第11溶岩ドームとなった.
 第11ドームは,東方向を中心に成長を始めたが,次第に北東方向にも範囲を拡大したため,北東方向への火砕流の流路幅を漸次北側に拡大していった.このため,すでに第3ドーム成長時期より懸念されていた,北東側,島原市千本木地区への火砕流の到達が次第に現実味を帯びるものとなってきた.5月下旬,初めて千本木に至る中尾川源流部に火砕流が流下,山林火災を発生した.そして6月23日から24日にかけ,立て続けに3発の大規模火砕流が発生,火砕流流下範囲は千本木地区全域に及び,新たに1名の犠牲者を出すと共に,同地区に壊滅的被害をもたらした.
 また,この年の4月終わりから5月始めにかけては,度重なる豪雨により,水無川流域は,大規模な土石流災害に見舞われた.
 1993年11月下旬になると,火口付近での地震活動が頻発状態となった.また,1991年5月の溶岩ドーム出現以来の山体膨張が観測され,ドームの南西方向への急ペースな張り出しが続いた.地震活動は,日に日に最大地震の規模を増し,ついには雲仙岳測候所で震度Iの有感地震を観測するまでになった.結局,地震はM3直前で頭打ちとなり,また12月中旬からは発生頻度が徐々に低下した.
 この地震活動は,翌1994年1月6日を最後に終息したが,それから9日目の1月15日,ドーム頂部に第12溶岩ドームの出現が確認された.第12ドームの成長が停止した後の同年3月から4月にかけては,再び地震活動が活発化,山体の北方向への張り出しが顕著化したが,4月中旬より地震活動は次第に衰退し,地殻変動のペースも鈍った.
 これらの活動に伴って,溶岩ドームからは全方向への溶岩の崩落が発生するようになり,ドーム南西,北方向などで新たな火砕流流路が形成された.
 1994年7月には,ドーム南東側に第13溶岩ドームの出現が確認された.しかし,溶岩噴出量はすでに日量10万立方メートルを下回るペースにまで減少しており,第13ドーム成長停止後は,溶岩ドーム頂部の緩やかな隆起がみられるにとどまった.
 溶岩供給は,1995年3月には停止した.溶岩噴出総量2億立方メートル以上,現在の溶岩ドーム(平成新山)は,東西幅1200m,南北幅800m,元の地獄跡火口底からの高さ230m.噴火活動は終息したものとみられるが,最近でも,火口直下での地震活動が時折観測される他,降雨の影響などによる小規模な崩落現象も発生しながら現在に至っている.

 雲仙岳1990ー95年噴火活動区分前

●前駆地震活動期(89.11 - 90.11.16)
  橘湾群発地震 --> 山頂周辺地震活動,火山性微動発生
●噴煙活動期(90.11.17 - 91.5.19)
  1)九十九島,地獄跡火口活動期(90.11.17 - 91.2.11)
  2)屏風岩火口活動期(91.2.12 - 3.28)
  3)3火口同時活動期(91.3.29 - 5.11)
  4)地殻激変期(91.5.12 - 5.19)
●溶岩ドーム形成期(91.5.20 - 95.3)
  1)第1期(91.5.20 - 92.12):主に溶岩ローブ形成
  2)第2期(93.1 - 93.10):主にローブ形成
  3)第3期(93.11 - 95.3):主に破砕溶岩丘形成
●後続変動期(94.4 - 現在)
  山体収縮,溶岩ドーム自重沈下